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「伝える」ということ「伝わる」ということ

英語が駄目だ。
がっかりだ。
ほんと、私は英語が不自由です。
そんなことはとっくの昔から承知だったので、今更がっかりすることは何もないです。
でも、すっごくがっかりです。

私は、日本語でしか脚本を書くつもりがなかったし、日本語でさえまだまだ不自由なのだから、英語なんか日本語がちゃんとできてからでいいじゃないか、日本語の二の次でいい。そうだ、それが正しい・・・と、負け惜しみというか、現実逃避というか、英語全然駄目です状態に長いこと目をつぶってきました。

が、英語がもうちょっと不自由じゃなかったら、理解できたかもしれない、私が思ったこともなかった新しい考えや、交わせていたかもしれない会話や、もっと深く知り合いになれていたかもしれない関係や、そういうものが手を伸ばせば届くところにあったのに、取り損なってしまったかもしれないのは、とてつもなくがっかりです。

英語ができなくて、恥ずかしいとかじゃないです。
いや、恥ずかしいです。
そりゃ、すっごく恥ずかしいです。

以前、自転車キンクリートで、『ソープオペラ』というニューヨークに駐在する日本人の芝居をやった時、稽古で「アメリカ人がいきなり家に訪ねてきた。何とかして対応せよ」というお題のエチュードを、演出・鈴木が命じてやったことがあります。
エチュードだから台詞はアドリブなので、役者は非常に乏しい自分が持てる英語力を駆使して、エチュードやりました。
誰とは言いませんが、ある女優が、とんでもないことを言い出しました。
「ふぁっ○ みー! ふぁっ○ みー!」
尋ねてきたアメリカ人役の役者は、目を白黒させ、どうリアクションしていいか判らずに、呆然としてました。まあ、そのリアクションで正しいんですが。
当然、観てる者たちは大爆笑です。

なんで、彼女はいきなりそんなことを言い出したのか。
彼女は、かの有名な英語の罵倒語「ふぁっ○!」という言葉が、罵倒語であるということは知っていたのですが、なんと信じられないことに「ふぁっ○」の一番多く使われる意味を知らなかったのです。
罵倒語なのだから、「ふぁっ○」は多分「怒る」とかの意味だろうと思ってたそうです。
純真と言えば純真です。
が、いくつだよ、おまえは!
私と同い年ですよ。

彼女が本来言いたかったのは「知らない人を家に入れると、私は夫に怒られてしまいます」ということらしいです。
が、主語の「私の夫」を抜いてしまったために、命令形の「ふぁっ○ みー!」と連呼することになったので、その結果、とんでもないことを命令する羽目になってしまったのです。
いや、物凄く面白いかったです。
その時にやったほかのエチュードは忘れちゃったけど、それだけは忘れられません。
その女優は、なんで一同が爆笑してるのかの真実を知った時、穴を掘ってでも入りたいと恥ずかしがってました。

その時は大爆笑してた私ですが、
とてもじゃないけど、彼女を笑えません。
それどころじゃない、とんでもないことを言ってる可能性が高いです。
勿論恥ずかしいです。
めちゃめちゃ恥ずかしいです。

でも、恥ずかしいよりさらに大きいのは、「損しちゃったなあ」という気持ちです。
CNNやBBCのニュースが全部理解できたら、カッコいいとは思います。
が、家にいて、CNNがついてて、アナウンサーの英語がさっぱり判らないからと言って、別に「がっかりだ」とか「損した」とは思いません。

だけど、違う国で私が知らない状況の中で芝居をやっていたり、私が思いもよらないような芝居を作っていたり、私の頭をかすめたこともなかった芝居についての考えを持っていたりする人たちがいて、芝居についての新しい話題を直接話し合えたかもしれないのに、それができなかったというのは、めちゃめちゃがっかりです。

女性劇作家国際会議(WOMEN PLAYWRIGHTS INTERNATIONAL CONFERENCE)に参加するために、インドドネシアに行ってきました。
インドネシアの各地からは勿論、アメリカ、イギリス、イタリア、イラン、インド、オーストラリア、オランダ、カナダ、シンガポール、タイ、ドイツ、フィリピン、ベトナム、マレーシア、メキシコなどの国から、たくさんの参加者が、ジャカルタに集まりました。

会議なので、いくつものスピーチがあり、それについての質疑応答や意見の交換があるので、それは英語で行われます。
死ぬほど、集中して聞いてましたが、もともと語彙が貧しいので、聞こえてこないし、たまに聞こえてきても、「あ、この単語は聞いたことあるぞ、でも意味はなんだっけ」とか、たった一個の単語について、自分では超高速思考をし、英語力を総動員し、フル稼働してるつもりでも、客観的に見れば、超低速。動いてないも同じ。フリーズ。
もう、F1に徒歩で参加する人と化してました。それじゃ、ついてくどころじゃない。むしろ危険だ。サーキットから出ろ、だ。

通訳の方がついて下さったのですが、すべてを通訳して頂くのは無理です。
呑み屋とかで芝居の話が盛り上がって、いろんな人がいろんなこと喋ったり、全然違うことに話が飛んだりしたら、その内容や流れをすっかり別の言語に通訳するのって、ものすごく大変だろうなと想像はできます。
だから、もう、会議では、ほんと片鱗のカケラしか判りませんでした。それでも、面白いことがたくさん聞くことができましたが(でもそこで話されたことのごくごくごくごく一部)、それについて自分が意見を持つとか、質問を持つというところまでは、とてもじゃないけど、到達できっこないです。
討議だなんて、夢のまた夢のまた夢のまた奇跡。それは、どっか遠い次元にあるのかもしれないなあ、いつの日にか、行ってみたいなあ、そこへ・・・って感じでした。

「アルプスの少女」で、いくら勉強しても、読み書きができなかったハイジが、朝起きたら、すらすら読み書きできるようになっていたというエピソードを思い出しました。
「今すぐに、私に、それが起これ!」とインドネシアにいる間中、寝る前に毎晩必ず念じてました。
「前世がイギリス人とかで、前世の記憶がいきなりよみがえるでもいい。前世がイギリス人かアメリカ人であれ。でもって前世の記憶が明日の朝よみがえれ」とも祈りました。

起こるわけがない。

とにかく日本に帰ったら、まず「えいご漬け」を買わなければと固く決意した。が、「えいご漬け」を買ったからといって、英語が急に自由になるわけない。だいたい、ディクテーションて何だ? 「えいご漬け」の説明文を読んでさえ、意味が判らない言葉がある。駄目だ。買う前に挫折した。その挫折に打ち勝って、「えいご漬け」買ったとしても、買っただけで気が済んじゃって、そのままになるに決まってる。エクササイズマシンを通販で買って、満足して、エクササイズなんかしないのと同じだ。のだめカンタービレ見て、急にピアノが弾きたくなって、思わず楽譜を買ってしまっても、モーツァルトやベートーベンのピアノソナタが弾けることは当然あり得ないので、楽譜があるってだけで満足してしまうのとすっかり同じだ。

無駄、の一言。

インドネシアの女性劇作家国際会議では、午前中に会議があって、午後はワークショップがあって、夜は芝居を観ました。
芝居も、英語かインドネシア語でしたが、ほんとに今更あえて言うまでもないことは判ってますが、芝居になると受け取れる情報量は全然違います。
生きた人間が何とか感情を伝えようとして、演技をするというのは、あらためて言うのはほんと馬鹿ですが、ものすごい力を持ってます。

英語とインドネシア語とタガログ語の芝居を観ました。
日本語じゃない芝居を、こんなにたくさんまとめて観たのは生まれて初めてです。
当然、全部が判る訳はないです。受け取れなかったことのが、多いです。
でも、午前中の会議で耳をすませて、脳をフル回転させて、集中しまくっているのに、さっぱり何も受け取れないで、ストレスと損した感だけがどんどんたまっていくのに比べると、芝居観てる時にはものすごく多くのものが受け取れて、すごく面白いです。
ストーリーは、完全にとは言わないけど、ほぼ判るし・・・いや、実際には、私はさっぱり勘違いな受け取り方をしてて、本当とはまったく違うストーリーを受け取ってたかもしれません。その可能性は大。だとしても、何らかのストーリーを受け取ることができたのは確かです。
舞台の上で表現されている感情は、ほぼ判りました。で、それは間違ってないと思います。

ほんとあらためて言うことではないですけど、

舞台は、言葉じゃない。

ていうか、舞台で受け取れるものが多いのは当たり前です。
顔の表情、身体の表情、役者さんたちが作り出す空気、装置や小道具、照明や音響・・・舞台の上にあるすべてのものが「舞台の上では今こんなことが起こっていて、こんな気持ちでいるんですよ」と必死で伝えようとしているのですから。

インドネシア語やタガログ語の時は、英語の字幕が出た舞台もありましたが、私が英語の字幕を読むスピードが遅すぎるので、もう読むのが面倒になって舞台の芝居の方に集中してました。
またも当然のことを言いますが、状況説明の台詞はやはりさっぱり判りません。芝居の進行上は、すごく重要なんだと思いますが、さっぱりです。
その場合は、英語が不自由な私でさえも、英語字幕見て、何とか補ってました。英語字幕が出る英語以外の芝居の場合はまだいいんですが、字幕の出ない英語の芝居は、もう聞くしかなくて、ヒアリング力がおそろしく貧しい私にはお手上げ状態でした。
「状況は、もう判らなくてもいいや」と諦めるしかなかったです。
でも、感情は、英語でもインドネシア語でもタガログ語でも、すっごく判ります。

繰り返しますが、とてつもなく当たり前のことです。
芝居は、舞台の上にあるあらゆるものを使って、「伝える」もので、そして、言葉が判らない人に対しても、すべてではないけれど、多くのものが「伝わる」のだと、体感しました。

インドネシアに行く前に、『法王庁の避妊法』のタガログ語バージョンを、ビデオで観ました。
『法王庁の避妊法』は、英語に翻訳されてるのですが、それをさらにタガログ語に訳して、フィリピンで上演して下さった方たちがいて、そのビデオを初めて観ました。
これは、勿論、台詞を全部知ってるので、一言も判らないタガログ語だけど、よく判りました。
当然だ。威張ることではない。

英語版からタガログ語版になってるので、細かい台詞がどうなっているのかは判らないです。
でも、お客様のリアクションは、私たちが上演した時とほぼ同じでした。同じ台詞で同じような反応が返ってきていました。
日本で上演した時よりも、観客の皆さんの反応が熱烈で、すっごく楽しんで頂けてるようなので、羨ましいぞと思ったほどです。

細かい台詞がどうなっていようと、そんなことはどーでもいいんだなと思いました。
伝えたかったことは、伝わってるんだなと思いました。
私たちが「こんな人たちのこんな話は面白いと思う」と伝えたかったことを、フィリピンでタガログ語で上演して下さった方が判って下さって、お客様にも確実にそのことが伝わってることが判り、すごく嬉しかったんです。

伝えたいと思ったことは、伝わるんだな、と心から思いました。

細かい台詞の一言一句なんか、どーだっていいです。伝われば。

ちょっと宣伝ですが、その『法王庁の避妊法』が、なんと初版で刷った分が全部なくなったらしいので、新しくまた出ることになりました。
最初に作った冊数が少ないので、なくなったからと言って、すごいことじゃないのですが、それでも嬉しいです。
読んで下さった皆様、上演してくださった皆様に、本当に感謝したいと思います。
で、中身は勿論、ほとんど同じなんですが、新しく刷るにあたってちょっと直したりしてます。細かい台詞を「あーでもないこーでもない。やっぱ、あーの方がよかった。こっちはこーにしとこう」とか、どーでもいい細かいことを、ちみちみ直してます。
細かい台詞の一言一句なんか、どーでもいいです。
どーでもいいけど、それでも直します。
舞台に乗った時や、英語やタガログ語になった時は、その違いなんかどーでもいい範囲の違いでしかないですが、それでも、ちょっとでもより多くのことが伝わって欲しいので、ちみちみ作業してます。
来年早々には(まだいつだか正確には判ってないですが)、私以外の誰にも判らないくらい細か〜いところを直し、あと、ちょっとだけ、おまけがついた『法王庁の避妊法』が出ます。ひとつよろしくお願いいたします。

インドネシアで、参加者した皆さんからたくさん戯曲を頂いたので、ちょっとずつ読んでます。超貧しい英語力で。
その本たちは、わざわざ私のところに来てくれたのだから、なんか素敵なことが絶対に隠れてるに違いないので、どーしても読みたいです。
おそろしくのろくさい読み方で、いつ読み終わるか判らないですけど。
ま、そのうち、英語の戯曲読むのにも、慣れるかもしれないし。
慣れるといいな。
慣れてほしい。
どうにか慣れないもんかな。

明日の朝には、英語がいきなりできるようになってますように・・・と、やはり今日もまた寝る前に願ってしまうのでございます。

皆様、よいお年をお迎え下さい。

★インドネシアのお馬鹿道中記なども、飯島のブログ「顔を洗って出直します」に書いてます。お正月休みに何もすることがなくなったような場合、よかったらお読み下さい。

(2006年12月27日)

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